軽米町の雑穀

「千年・育て続ける雑穀」

雑穀がどこで栽培され始めたかはよく分かっていませんが、キビ・アワ・モロコシ(タカキビ)・麦・大豆・小豆などはシルクロードを通って中国に入り、朝鮮半島を経由して日本に入ってきたものが多いようですが、ヒエは日本が原産地と考えられています。

東北地方北部~北海道南部のいくつかの縄文時代の遺跡からは、ヒエ・アワ・キビの種子が多量に発見されており、約4,800年前にはヒエを食用穀物として栽培していた可能性が高いことが明らかになってきています。

昭和62年に行われた軽米町大字晴山の皀角子久保(さいかちくぼ)Ⅵ遺跡の発掘調査では、東北地方では初めて平安時代(約1,200年~800年前)の畑跡が発見され、この土の中には、コメ・ヒエ・アワなどの穀物の種子も含まれていました。

江戸時代(約400年~140年前)の記録では、九戸地方では水田より畑の比率が高く、水田でもヒエを栽培する「稗田」が多く含まれています。ヒエの稈は馬の資料にもなり、馬の糞は畑の肥やしになります。この地域では各戸で農業用また販売用として馬を多く飼育していたため場産地としても有名になりました。雑穀を主体とする輪作による畑作農業は、厳しい寒冷なこの土地で先人が生き抜いていくための必然的選択ではありましたが、馬産地を支える循環型農業をも生み出していました。

また、軽米町には江戸時代の東北三大農書の一つである『軽邑耕作鈔』が遺されています。『軽邑耕作鈔』は、軽米の豪農・在郷商人であった淵沢圓右衛門(1792?~1871 没)が弘化四年(1847)から書き始めた、軽米に適した農業を研究した農業技術書であり、農業経営書でもあります。畑作経営を主体としたものとしては南部地方において唯一の貴重な農書です。淵沢は寒冷な軽米邑(村)に適した農法を十五年に亘って研究・実践したものを書き残し、畑作物十四種、野菜など四十種、水稲を加えて計五十五の品種について、九十三栽培型の栽培法を述べています。また、農を重視する心得から、耕起・播種・施肥・作物保護などの時期・方法、必要とする量・所要労働力(人馬)に到るまで、事細かな研究の成果が書き記されています。特にも冷涼な気候が引き起こす度重なる凶作による飢饉へ対応するため、主食のヒエと救荒作物としての大根に力点が置かれています。淵沢圓右衛門が息子に遺した家訓『遺言』(天保四年(1833))においては、新田開発は余力がある時だけ行い、常日頃からヒエ・アワ・大麦を食べ、ヒエを大量に蓄えることが力説されています。また、天保の飢饉に際しては、実際に親類・縁者などにヒエを無利子で貸し、多くの人命を救っています。

気候・風土の劣悪さをただ嘆くばかりでなく、叡智と努力によって凶作・飢饉を乗り越えようとした淵沢圓右衛門の思想と実践は、現代の農業にも多くの示唆を与えてくれます。

(引用:岩手県庁ホームページ)

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